イギリス旅行13 ナショナル・ギャラリー

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 ピザ二枚、ドリンクなしで6000円! 京都で食べればこのくらいの昼食は3000円くらいで食べられるはず。ロンドンは物価が京都の二倍じゃないか! よくわかんないけど、ロンドンは経済力が日本の二倍ということなのだろうか。いや、そんなに単純な計算じゃあないのかもしれないが、それにしてもすごい国だ、とピザを食べながらイギリスに対して畏敬の念を抱く。ナショナル・ギャラリーやV&Aを見ていると、イギリスは芸術とか文化とかに日本の倍くらいは力を入れてそうだな、という気はする。赤い二階建てバスの側面についてる広告はほとんど全部が演劇など舞台作品の広告だった、地下鉄のエスカレーターに沿ってずっと並べて貼ってあるポスターも、いまロンドンで上演中の舞台作品の広告だった、こんなにいっぱい演劇を上演してるなんて、ロンドンにはいったいどんだけ劇場があるのか。ナショナル・ギャラリーでは数え切れないほどの絵画を無料で見せている、大英博物館では世界中から集めた文化財をやっぱり無料で見せてくれる、この国は芸術とか文化とかに惜しみなくお金を使うし、惜しみなく見せるのだな、と日本との価値観の違いにたまげる。日本に住んでるとテレビでもネットでも目にするのは日本の中のことがメインになっちゃって、歌番組なんかでも出てくるのは日本のアイドルだのバンドだのばかりだし、なんとなく世界の中心は日本、日本の中でも東京、東京の中でもよくテレビに映る渋谷のスクランブル交差点、あそこが世界の中心だ、世界の文化はあの交差点から生まれているに違いない、みたいな気に僕はなっていたけど、どうもそれはまちがっていたのかもしれないぞ、とロンドンを歩いているとそんな気がしてくる。ロンドンには思った以上にいろんな人種の人がいた。来てみる前は白人ばっかりのロンドンを想像していたけど、いや、あえて想像するまでもなく自然とそんな印象を持ってしまっていたけど、来てみたら想像していたよりもずっとたくさんの人種の人が道を歩いているし働いている。こんなにたくさんの人種がひとつの町にいるなんて、ここはなんてコスモポリタンな町だろう、世界をリードする文化は世界中から人が集まるロンドンのような場所でこそ生まれるんじゃないか。僕が世界の中心だと思っていた東京は、実は小さな狭いローカルな町なのかもしれない。毎日テレビで見ているニュースとかお笑いとか歌とかドラマとかはローカルな情報であり偏った作品なのかもしれないなあ。僕はこれまで「東京ではタピオカが流行ってるらしい」とか、「東京では何か笑えることがあると『おもしろすぎて草も生えない』というらしい」とか、東京の方ばかり見ていたけど、東京だけを見ていたのでは生きる世界が狭くなっちゃうのかもしれない。むしろ東京のことなんて全然考えないで、自分の住んでる京都と、あとはロンドンのことを気にしつつ生きていった方が良いのではないか、そのためにも英語をもっと勉強したいものだなあ、という気になる。昼ごはんを食べたあともう一度ナショナル・ギャラリーに戻り、娘の足がそれこそ棒になるまで歩き回り絵画を見まくったが一日じゃあ半分も見きれない。気力を振り絞って奥の方のレンブラントを見て、さあ、これでだいたい見たい絵は見つくした、もう帰ろう、と入口付近に戻って来たらカラヴァッジョの特別展示に並んでる列が短くなってたので、こんなチャンスは人生にそうそうめぐってくるものじゃないから、と足が痛い娘を励ましつつ列に並び、照明を落とした部屋に入ってみたらカラヴァッジョの絵は二枚だけで(特別に部屋を作って展示するからには世界中から五枚も六枚もカラヴァッジョをかき集めて展示してるのかと思っていたのだが、そうじゃなかった)、たくさんの人がこの二枚の絵をじっくりを見あげている。カラヴァッジョは450年くらい前に今のイタリアで生まれた絵描きで、若い頃からだいぶやんちゃをやった人らしく、たしか一人か二人くらい人を殺したりもしていて、それで「こいつの首を持って来たら賞金を出します」みたいなことになっちゃって、いろんな人から命をねらわれてイタリアじゅうを逃げ回りながら絵を描いていたのが逃げてる途中で船の上で病気になって死んでしまったというから、いったい心が休まる時なんてあったのだろうか? この日僕が見たカラヴァッジョの絵はどんな絵だったのか? 「カラヴァッジョを見た」ということだけは覚えているのだけど、カラヴァッジョのなんの絵を見たのかはすっかり忘れてしまっている。さあ、今度こそ帰ろう、もう見たい絵は全部見たから、とおみやげコーナーに行くと、ナショナル・ギャラリーもやっぱりおみやげコーナーは充実している、うちの子は絵はがきを何枚か選んで買うことにした、妻もいろいろ買ったみたい、僕はここでは何も買わなかった。妻が応対してもらったレジ係の黒人の女の人は日本語を流暢にしゃべる人で、あの人はもしかしたら日本に住んでたことがあるのかもしれない。娘は花の飾りのついた帽子をかぶってパレットを持った綺麗な女の人の絵はがきを買って、絵に詳しい妻が言うには、この絵はマリー・アントワネット肖像画を描いた絵描きの人が描いた自画像なのだそうだ。おしゃれな帽子を自慢し合うパーティーか何かでマリー・アントワネットと知り合いになったらしい。きっと一番おしゃれな帽子をかぶって一番おしゃれな服を着た自分を描いたのだろう、この時代は写真なんてないから、人が死んだあとにその人の顔かたちを残そうと思ったら絵に書くしかなかった、この人は一番のおしゃれをした若い綺麗な自分の絵を書き、それを後世に残して死んで行った、おしゃれをしたこの人の絵は絵はがきになり、極東の日本から来た十歳の女の子に買われて日本に運ばれてトイレのドアに貼りつけられて毎日まいにち日本の女の子に眺められる、本人は死んでいるのに日本の女の子は毎日この人の姿を見続ける、というこれはある意味不死ということにもなるのだろうか。いい絵はがきだけど、この絵の実物は見逃した、せっかく絵はがきを買うのならば一度実物を見ておいたほうがいいんじゃないか、ということで、足を引きずってまた館内に引き返し、この女の人の絵を見たのだったが、もう本当にクタクタだ。今度こそ帰ろう、ホテルに帰ろう、とナショナル・ギャラリーの外に出る。帰ることは帰るけど、ちょっとだけ寄り道をして帰ろう、すぐ近くにビッグ・ベンがあるからそれを見て帰ろう、近くだから歩いて行けるよ、と娘をはげましてテムズ川まで歩く。横断歩道を渡ればテムズ川のすぐ隣を歩けるよ、と言ってみるが、娘の足はもう限界なので、横断歩道を渡る気力もない。道路には京都の植物園の並木道みたいな、形の良い高い木が等間隔に植えられていて、ロンドンは街なかのなんてことない道でもいちいち風景が素敵なのだなあ、と感心する。道端にある細長い公園を歩いていると太陽が出て来た。ロンドンに来て初めての太陽だ。ああ、ビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、こういう瞬間を歌った歌なのかもしれないなあ、と思う。雨が降っていたときは「アイアム・ザ・ウォルラス」に歌われている風景が頭に浮かんでいた。「イングリッシュ・ガーデンに座り太陽を待っている。もし太陽が出てこなければ、イングリッシュ・レインで日焼けができるかもしれないぜ」という歌詞。ジョンが歌っていた「イングリッシュ・レイン」というのは午前中に降っていたあの雨のことだし、ジョージが歌っていた太陽は午後の公園で雲が切れて出て来たこの太陽なんだな、と思う。雨が降っていると寒くて冬みたいだったけど、日が出ると暖かい。公園を歩いてみれば実はロンドンはもう新緑だらけで、この新緑の具合は日本の五月とちっとも変わらない、冬じゃなくて春の新緑だ。テムズ川の向こう岸にロンドン・アイや水族館の建物が見える。