こないだの日曜日のこと


 本格的に寒くなる前に一度外で朝ご飯を食べておこうという話になり、それで僕と妻は日曜日に卓上ガスコンロとコーヒーメーカーとコーヒーの粉、それから地面に敷くビニールシートを持って家を出た。家から歩いて五分のパン屋さんでパンを買い、水を忘れたので水も買い、それから加茂川の土手の芝生へ行った。芝生ではおばさんが二人、ラジカセのテープの音楽に合わせてゆっくりと太極拳を踊っていた。そのテープの音がぎりぎり聞こえないくらいの日陰にビニールシートを広げて、お湯を沸かしてコーヒーをいれた。なんだか今日のコーヒーはいい匂いがする、と思ったのはもしかしたらキンモクセイの匂いがコーヒーの匂いに混ざったからなのかもしれなかった。十月になってから急にキンモクセイが匂い始めた。キンモクセイの匂いをかぐと小学校の運動会を思い出す。僕が通っていた小学校の校庭には、校門の横のトイレのわきにキンモクセイが植えられていた。毎年十月の始め頃に運動会をするときには、いつもキンモクセイが満開だった。僕は六年間、毎年このキンモクセイの匂いをかぎながら玉入れをしたり走ったり踊ったりしたものだった。僕は六年間青のはちまきの榛名だった。運動会は一年生から六年生までが一緒になって、赤のはちまきの赤城。白のはちまきの妙義。そして青のはちまきの榛名の三つのチームに分かれて点を取り合う。青のはちまきは何度も洗濯するに従って白く毛羽立って来て、その青と白が混ざりあったぼんやりとした色が空の色に似ていて僕は好きだった。
 小学校の校庭といえばメタセコイヤだ。メタセコイヤは校舎の屋根よりも高くのびていたのではなかったろうか。小学校に入学したばかりの頃は、このメタセコイヤの根元で芋虫を転がして遊んでいた。いや、遊んでいたのはタカちゃん達だった。僕は芋虫に触れないから、ちょっと離れたところで芋虫を転がすタカちゃん達を見ていたのだと思う。芋虫は今でも触れない。それにしても記憶の中のあの丸まった芋虫はこぶりのおにぎりくらいの大きさなのだけれど、そんな大きな芋虫を大人になってからは見たことがない。あんなに大きな芋虫があの小学校の校庭にはいたのだろうか。それともタカちゃんか誰かが近くの山からとってきたりしたのだろうか。
 河原でコーヒーを飲んでいると、ジョギングをしている人がちらほらと通る。背中にゼッケンをつけている人がいる。今日はもしかしたらマラソン大会でもしているのかな、と思いながらパンを食べてコーヒーを飲み終わる頃、河原を走る人がどっと増え出した。視覚障害のある人と視覚障害のない人がひもを握りあって走っている。仮装をしている人も走っている。メイドの人。ネズミの人。スパイダーマンの人。フリーザの人。お嫁さんの人。カトチャンの人。お嫁さんとカトチャンは手をつなぎあって走って行った。
 吉田寮で「ほぼ百年祭」というものをやっている、ということを昨日の夕刊で見た、という話を妻にすると、ぜひみに行きたい、という。それで朝ご飯が終わると一度家に戻り、身支度をして自転車で吉田寮に向かった。吉田寮食堂で演劇をみたことはあったけれど、吉田寮の寮の方に入るのは今回が初めてで、思っていたよりも広かったのでびっくりした。ガラスなんか割れていてそこに新聞紙か何かがはりつけてある。停電のなか、玄関前のソファーでマンガを読んでいる人がいる。隣の部屋では誰かがピアノを弾いている。ギターのチューニングをしている人がいる。シャワーを浴びたあとなのか、髪の毛がびしょびしょになった人が首にタオルをかけて歩いてくる。その人の歩いて来た方に向かって行くと、匂いのはげしいトイレがある。トイレの横にはどこまでも奥行きのある木の廊下が延々と延びていた。廊下に出されたダンボールには靴やら古本やらがつっこまれている。白いまな板の上には乾きかけた醤油の入った小皿。ガスレンジは古い油や古い食べ物がこびりついて真っ黒。張り紙もいろいろはってある。「キーボードのカバー譲ります」とか。窓から見える部屋の中には万年床のしわくちゃのふとんが見えた。その向こうには草ぼうぼうの中庭。バナナみたいな木が見える。緑に囲まれた、風通しのいい、開放的な空間は、木でできているため少しずつ腐って壊れて行く。こんなふうに壊れていくまっただなかにある建物に住むということで、「ものごとはすべて滅びて行く」ということを肌で感じながら生きて行けるんじゃないかしら。こういうところに住めばこそ、主流から外れたオルタナティブの思考ができるようになるんじゃないかしら、という気がした。
 それからまた自転車に乗ってFJさんのひとりミュージカルを見て、夜は飲み屋で生ビールをはらいっぱい飲み、家に帰ってラーメンを食べて寝た。