イギリス旅行17 ヴィクトリア駅

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4月29日(月)フロント係の男の人は昨日とは違う人だった。昨日の朝のフロントの人は妻が「カルバン・クライン」とニック・ネームをつけていたんだけど、なんでカルバン・クラインだったのか? カルバン・クラインの服を着ていたのだったか? 後日、カルバン・クラインの本名は「アレックス」だということがわかるのだが、昨日の朝のフロントのアレックスは愛想がよくて、僕は色々しゃべったのだったけど(部屋のヒーターについて)、今朝のフロントのスーツの男の人は割とおとなしい感じで、真面目な顔で「グッド・モーニング」とあいさつするくらい。思っていたよりもたくさんの人が交代で働いているホテルみたいだ。地下鉄に乗るためにアールズ・コートの駅に向かうのだが、三日目ともなると駅に向かう道の景色にも馴染みが出てきて、初日に見た異国のよそよそしさがだいぶ薄れている。今日から平日なので街には通勤の人がいっぱいいてバス停でバスを待っていた。そういえば昨日(4月28日)の朝はバスもガラガラだったし、街を歩いている人も少なく、ジョギングしてる人がちらほらいるくらいで、人の少ないロンドンの街の様子がいかにも日曜の朝、という感じだった。平日の朝のロンドンは活気がある感じ。地下鉄でヴィクトリア駅へ行く。ヴィクトリア駅で階段を上がって地上に出ると、僕はすっかり忘れていたんだけど、あ、ここは前にも来たことがある! と27年前にここに来たときの風景を突然思い出して、ああ、懐かしい場所に戻ってきたのだなあ、と思う。当時あそこの看板にはミスター・ビーンの映画の広告が貼ってあって、僕は広告を見た日の夜だったか次の日の夜だったかにカンタベリーでその映画を見たのだったよ、などと興奮して妻と娘に話す。改札で駅員のベストを着た女の人が二人、延々と立ち話をしている、立ち話の合間に客に何かを尋ねられるとそれに返答して、それからまたしゃべる。僕は三日目ともなるとだいぶ気持ちに余裕も出てきて、英語でしゃべってみたい欲が出ていたので、この女の人に「エクスキューズ・ミー」と喋りかけてみる。うちの子は10歳だからこの電車もタダで乗れるんだよね? と尋ねると、何か英語で答えてくれるのだけど、何を言っているのか全然わからない。適当にわかったふりをして「オーケー」「イエス」とあいづちをうち、オイスター・カードで改札に入ろうとすると、止められる。どうやら子供も切符が必要らしい。切符売り場に行き、オーピントン駅までの子供の往復切符を買う。さっきの改札口まで戻ると、二人の女の人の駅員の人はまだしゃべっていて、この人に「僕はさっきオイスターカードで改札にタッチしたんだけど」と言ってみると、「ああ、あなたね、覚えてるよ、こっちから入って」と、改札を開けて入場させてくれた。今回の旅行ではイギリスの駅をいくつも利用したのだけれど、駅で見かける駅員さんはのんびりと、ぶらぶらと働いている人が多くて、とてもゆったりした空気を醸し出していた。駅員同士で延々としゃべってたりして、だけどそれがだらしなく見えるのかというとそうでもなくて、とにかく余裕がある感じ。イギリスの人は、他人を見張って厳しく接するのではなく、他人がそれぞれの好きな服を着たり、好きなピアスをしたり、好きな入れ墨をしたり、訛りもそれぞれ違ったり、人種も宗教も違うけど、そういうのをお互いに尊重しあっている感じがする。「私はあなたにとやかく言わないから、あなたも私にとやかく言うな。我々はお互いが違うことを分かっていて、それぞれが生きたいように生きる、その人の生き方はその人に任せておいて、自分は自分の生き方を生きる。自分の好きな服を着るし、自分の好きなしゃべり方をする、それで良し」という生き方が働き方に滲み出ている。駅員同士がずっとしゃべってたら日本じゃあツイッターでたたかれて炎上して辞めさせられるかもしれない、という恐怖が、働く人を縛りつけている。でも、客が用がないときは駅員はしゃべってたっていいじゃないか、そんなことに目くじらを立てるやつなんていないよ、というイギリスのゆったりとした空気がとても自由に感じられて体も心も軽くなるようだ。客が「エクスキューズ・ミー」と来たらちゃんと応対するのだからそれでいいじゃないか。あと、駅員の数が無駄に多い。二人とか三人とか五人とかでかたまって立ってしゃべってたりする。駅の雇う側の立場に立ってみると、なるべく多くの人に仕事を与えて給料を払うから、君たちはその給料を使って買ったり食べたり飲んだりして経済を回してくれたまえ、ということなのだろうか。それに働く人が多ければ多いほど一人の人にかかる負担は減るわけだし、少ない人数でたくさんの仕事をこなすよりも、大勢の人がそれぞれちょっとずつ働くほうが楽だし楽しい。僕はついつい「無駄に多い」なんて書いちゃうのだけど、そもそもこの駅員の多さを無駄か無駄じゃないかで考えてしまう考え方自体が貧しい考え方なのだろう。多くの人で仕事を分ける、お金も分ける、給料が少ないと思ったらストライキをして給料を上げさせる、そうやってこそ人間らしい暮らしをおくることができる、というのがイギリスの考え方なのだとすれば、そっちのほうがどれだけ豊かな考え方なことか、と思う。