結婚記念日

 3月20日が結婚記念日なので、日曜日の今日、お昼ご飯にフランス料理を食べに行った。家族三人で賀茂川沿いを歩き、北大路のお店まで行く。賀茂川の土手に並んで植えられている桜の木はつぼみをパンパンにふくらませていて、今にも破裂しそうな勢い。いつの間にか春になっていたのだな。モクレンももう咲いているし。帰りは植物園を通り、芝生で小一時間ごろごろして過ごす。

 娘は最近子育てに忙しい。娘には三人の子供ができた。馬のグーグーマーマと、熊のくーちゃんと、あとウサギのなんとかちゃん。ウサギのなんとかちゃんの名前はうまく日本語の文字で表せないので、というか、良く聞き取れないのでこんどもう一回娘に訊いてみようっと。
 グーグーマーマは群馬県のマスコットのぐんまちゃんの人形で、これは群馬の両親がおみやげに持って来てくれた。くーちゃんは娘が生まれる前に妻のお母さんが贈ってくれたもので、背中にオルゴールが入っている。ウサギのなんとかちゃんは妻が買ったぬいぐるみ。娘はこの子たちにご飯を食べさせたり、三人まとめて背中にくくりつけておんぶして歩き回ったり、体温計で体温を測ったり、ふとんをかけてポンポンとたたいて寝かしつけつつ口に人差し指をあてて「シー」といったり。親とか保育園の先生とかが自分にしてくれることを真似して、自分の子供たちにしてあげているみたい。朝、眼をさましたときとか、近くにグーグーマーマが見あたらないと「グーグーマーマ、グーグーマーマ」と娘はグーグーマーマの名前を呼んであたりを探す。

 こないだ、妻がiPhoneの写真を整理してたとき、「こんな写真があった」と娘がうまれる前のくーちゃんの写真をみせてくれた。

 未使用のベビーベッドで新品のクーちゃんが笑っている(となりのウサギは、なんとかちゃんとは別の人)。娘がまだこの世界に存在していなかった時間がここには写っている、そこにいるべきはずの人がそこにいない、というこの写真を見たらすごく変な感じがする。この写真をみていると、我々の人生には娘が存在しないまま生きて行くという選択肢もあったのかもしれないぞ、という考えがちらっと頭に浮かぶ。というか、どこか別の宇宙では、子供がいなかったバージョンの我々夫婦の人生、というのを生きている我々がいるのかもしれないぞ、と思う。それはさぞかし静かな生活なのだろうな。その静かな生活を想像するとぞっとする。
 
 磯崎さんにいただいた『電車道』をちょっとずつ読んでいる。「……ムササビは杉の木立へと消え去っていった。そんな! 空を飛ぶネズミなんて馬鹿げている!」とか「すき焼き用の牛肉とわざわざ鉄鍋まで用意して持って行ったこともあった。いったい俺は何をしているのか!」とか、一行前に書いたことに急にムキになってツッコミをいれる(びっくりマークまでつけて!)というその勢いの過剰さ、みたいな感じが僕はすごく好きだ。

 昨日のライブで、ジュンコちゃんから、僕が以前住んでいたアパートの部屋に今はお婆ちゃんが住んでいる、という話を聞いた。ジュンコちゃんがアパートの前を通ったときに、ドアがガチャッと開いて、お婆ちゃんと孫が出て来たのだそうだ。僕は、結婚しなかったバージョンの自分が今でもあの部屋に住んでいるような気がなんとなくしていたんだけど、そうか、お婆ちゃんがあそこに住んでいるのだな。そのお婆ちゃんになんとなく親しみをおぼえる。