『歓待』をみた

みなみ会館で。
いっしょに見た女房は「おもしろかった」といってたけど、ぼくはこの映画を観ながら不安で胸がしめつけられるようで、みている時間がわりとずっと苦しかった。ひとりで見に来ていたら途中で見るのをやめていたかもしれない。実際映画をみながら「ああ、もうここから出て行きたい」と思ったくらい。
なにが苦しかったか。たとえば、でもどりのお姉さんが英語の先生の前では明るい声を出したりしているけれども、小林印刷の社長とふたりきりになったときに「私にもひとこと言ってくれてもいいじゃん」みたいなことをいうときのやりばのない感情のこんがらがりみたいなのとか、英語の先生が生徒の前で外人さんに発音のダメだしをされたり、外人さんが早口でしゃべるのが聞き取れなかったり、しまいには生徒をとられちゃったりするところも苦しくて、「うわあ、あんな立場に立たされたらたまったもんじゃないな」と、自分が英語の先生になったような気分で、もうそこから逃げ出したくてしょうがない。
貫通が相手の夫にバレたときの社長の立場とかも苦しい。あんな立場を映画で経験してしまうと死んでも絶対に貫通だけはしたくない! と思わずにはいられない。あんなに苦しい思いをするのは映画だけで充分だ。婦人会の防犯ウォークみたいなものに付き合いで出かけていくお姉さんの気持ちとか、「たまにはおまえも行けよ」といわれて英語の先生が町内会の会議にはじめて出かけていったときの心もとない感じとか、もう、いま思い出してるだけでまた不安でしょうがなくなる。ああ、不安だ不安だ。
英語の先生のお兄さんという人が小林印刷に働きに来るところとかも、もうあんなの絶対にいやだ。だいたい、毎月毎月10万円会計をごまかし続けて生活をしていた英語の先生のことを思うと、もう、あたまがおかしくなりそうだ。寝ても覚めても毎月の10万円のごまかし方ばかりが頭の中にあるから、なんにも心から楽しめない。「こんな生活がいつまで続くのか」「一生これが続くのか」とか思うと、安心して眠れないんじゃないか、英語の先生は。ああ、不安でしょうがない。
で、「もう、なんていやな気分になる映画なんだろう」と胸をおさえながらみていたんだけど、さいごの方の外人さんがわらわらとあつまってきて飲み会をする場面は、「お、これは楽しそう!」と思い、気持ちもほぐれてきて、「あー、みんな笑ってるよ。よかったな」と思っていたら、夫婦がなぐりあって、警察が来て、外人さんたちはみんな逃げてしまう。そして祭りのあとの寂しさみたいな空気の中で映画が終わる。
たぶんぼくはこの映画のみかたをまちがっていたんだろうな。ぼくは自分がその場にいっしょにいるような気持ちでみていたんだけど、そうじゃなくて、一歩うしろに下がって、へんな髭のおっさんにかきまわされる家族の様子を「うわー、大変そうだね。だははは」とみられればよかったんだろうな。
『歓待』は、わけの分からないプーのおっさんがどこからともなく現れて、いつの間にか自分の家に住み、家のことや会社のことをめちゃくちゃにかき回す、というスジの映画だったけど、たしか去年DVDを借りて来てみた植木等の無責任男の映画も同じような話だった。無職の植木等谷啓のはたらく楽器会社にきて会社のお金をめちゃくちゃ使ってハナ肇におこられたり、谷啓のお母さんの家に住み込んで庭を駐車場にしちゃったりして、たいへんなんだけど、『無責任男』の映画はひたすら楽しかったな、という記憶がある。映画に時代の空気が反映されているということなのかしら。『無責任男』のころは高度成長期で、世の中がこれからどんどんよくなるよ、というハッピーな空気が映画に記録されているみたい。『歓待』は、働いても働いてもうだつが上がらない、とか、これから世の中どんどんやばくなっていくのかも、とか、こころから楽しめることなんてもうなにもないんだよ、という今の時代の空気が記録されているのかも。