noise-poitrine2012-07-12

 先週の木曜日にまた寿司を食べることができた。というのは、伏見に住む甥を保育園に迎えに行くという任務を弟夫婦から引き受け、その任務を遂行したあとで弟の奥さんがとってくれた寿司を甥たちの家でごちそうになったから。
 以前甥と上賀茂神社に行ったとき、靴が脱げたと言って甥が泣いたことがあった。僕がこの靴を履かせてあげればすぐに甥は泣きやんだのだろうけれど、僕は「ここで甘やかしてしまっては何でも人の手に頼るひ弱な甥に育ってしまうのではないか」と心配して、「自分で履きなさい」とあえて手を貸さず、それで甥は泣き続け、僕は周りの人の視線を気にし続け、という切ない時間を過ごしたことがあった。
 子どもが泣き叫びながら手を出すときは、そのものにこっちへくるように、あるいはそれをもってくるように命令しているのだ、ということをルソーの『エミール』で読んだことがあり、ルソーがいうには、子どもが泣いて命令したときには「かれの言うことがわかるふりさえしないことだ。いっそう泣き叫んだら、なおさら耳を傾けないことだ」。で、上賀茂神社の僕はルソーの言葉にしたがったのだった。しかしあのとき甥の大泣きをシカトしたことが、なんだかもやもやといつまでも胸にわだかまっている。
 そんなもやもやを抱えているときに、先月号の『文学界』に載ってた磯崎憲一郎さんの「見張りの男」という小説を読んだら、こんなことが書いてある。「子供なんていうものは甘やかせるだけ甘やかして育てないと、大きくなってからもおくるみで包んでやるかのように過保護に育ててやらないとダメなんだ、さもないと復讐のために一生を浪費する人間ばかりでいずれこの世界は埋め尽くされてしまう」。
 確かにそうだ! 上賀茂神社で泣いていた甥の目には復讐の炎がメラメラと燃えていたのではなかったか。甥の胸には、甥の靴を脱がせた地面に対する呪い、甥に靴を履かせない叔父に対する憎しみ、甥が泣いているのに助けに来ない母親への不信、そんな負の感情が渦巻いていたのではなかったか。そんな負の感情がこの世界を「復讐のために一生を浪費する人間」ばかりで埋め尽くし、それで世の中がこんなにも住みにくくなってしまったのではないか。
 と、そういう反省をした僕は、先週の木曜日に甥を保育園に迎えに行くときには、今度こそは「おくるみで包んでやるかのように過保護に」扱ってやろうと決心していた。保育園から甥の家までの徒歩20分程の距離を、甥をおんぶして歩くこともいとわないぞと決心していた。それで保育士のお姉さんから甥を受け取った僕は甥に「おんぶしてやろうか?」と声をかけ、しかし甥が希望したのは肩車だった。
 自動販売機の横などを通る際には、甥は僕の肩の上で体を斜めに倒し、自動販売機のボタンを押そうとする。電信棒の横を通れば、やっぱり体を傾けて電信棒に手を伸ばし、その質感を確かめようとする。甥の家についたときには僕は汗びっしょりになっていた。
 甥の荷物やベビーカーは、僕といっしょに甥を迎えに行った妻が運んだ。
 甥の家につくと、甥は早速トイレに入り、「でっかいのが出た」と僕の妻を呼び、「おお、元気なのが出たねー」などと妻にほめられてとても得意そうで、この日は甥は始終ハイテンションで、寿司もいっぱい食べていた。将来、また僕が寿司を食べることがあったら、そのときはこの日の甥のハイテンションを思い出すに違いない。
 寿司を食べてからディズニーの『スティッチ』をDVDで観た。ディズニーなのに不細工なキャラ、ディズニーなのに暴力、というのが意外でおもしろかった。